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テレーゼ・フォン・ザクセン=アルテンブルク(Therese von Sachsen-Altenburg, 1836年12月21日 アンスバッハ - 1914年11月9日 ストックホルム)は、ドイツのザクセン=アルテンブルク家の公女で、スウェーデン王族のダーラナ公アウグストの妻。全名はテレーゼ・アマーリエ・カロリーネ・ヨゼフィーネ・アントイネッテ(Therese Amalie Karoline Josephine Antoinette von Sachsen-Altenburg)。 ザクセン=アルテンブルク公子エドゥアルトとその最初の妻でホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カールの娘であるアマーリエ(1815年 - 1841年)の間の第1子、長女として生まれた。1852年に父を亡くすと孤児となったため、最初は従姉のハノーファー王妃マリーに、次いで伯父のホーエンツォレルン侯カール・アントンに引き取られた。1864年4月16日にアルテンブルクにおいて、スウェーデン王オスカル1世の四男であるダーラナ公と結婚した。夫婦仲は良好だったが、間に子供は生まれなかった。夫とは結婚して9年後の1873年に死別した。 夫を亡くして間もなくテレーゼの精神は徐々に崩壊し、自分の周囲の人間にひどく攻撃的な態度を取るようになった。病状が悪化するとストックホルム宮廷はテレーゼを厄介払いすることに決め、テレーゼは1875年に精神異常と診断されて、ダールスコルド伯爵夫人(Gräfin von Dahlskiöld)の偽名でスイスに追放された。彼女はヌーシャテルに買い与えられた屋敷で長年を過ごした。 1890年にスウェーデンへの帰国を許され、死ぬまでソルナのハガ城(現在のハガ公園)で暮らした。晩年のテレーゼは趣味の作曲や慈善活動に時間を費やした。また義理の甥孫で、知的障害のため家族から疎外されていたヴェストマンランド公エーリクを可愛がったという。1914年に死去し、リダルホルム教会の王家の墓所に葬られた〔http://www.tripwolf.com/de/guide/show/16672/Schweden/Stockholm/Riddarholmen-Kirche〕。 == 参考文献 == * Johannes Töpfer: ''Landeskunde des Herzogthums Sachsen-Altenburg'', S. 26 (Digitalisat ) * Margaret Howitt: ''Twelve months with Fredrika Bremer in Sweden'', Band 1, S. 60 ff. (Digitalisat ) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テレーゼ・フォン・ザクセン=アルテンブルク (1836-1914)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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